緩やかに浮上する意識の中。
額から瞼にかけてかかっていた重い湿り気が取り払われ、代わりに乾いた掌が触れるのがわかった。
熱を測るためだろう、暫く額に押し当てられていたその感触が、やがて静かに離れていく。僕はそこでようやくゆっくりと目を開けた。
僕の顔を覗きこんでいた金色の瞳が、気遣わしげに細められる。
「――アルフォンス」
先程まで僕の額に乗せられていたらしい濡れタオルを片手に握ったまま、エドワードさんは抑えた口調で僕の名を呼んだ。
「気分、どうだ……? 熱は下がってきたみたいだが」
「少し楽になったみたいです……ぐっすり眠ったからかな」
相変わらず身体はだるくて、関節が痛くて、咽喉が熱く感じられるのだけれど、それでも息苦しさは軽くなったし、頭もだいぶすっきりしている。
時計に目をやると、午後三時を回ったところだった。眠りに落ちたのは午前中だったから、4,5時間は熟睡していたわけだ。
その間ずっと傍に付き添っていてくれたらしい人は、ベッドの脇に置いてある小さな机から、吸い飲みを手に取った。
「ほら、水飲んで――できるだけ水分は摂っておかねえとな」
尖った飲み口を銜え、流れ込んでくる冷たい水をひとくちふたくち飲んだところで、軽く咳き込んでしまった。
エドワードさんの手が背中に回り、ゆっくりとさすってくれる。咳が治まるまでそうしていてくれてから、彼は心配そうな声で、何か食えそうか?と尋ねてきた。
「さっき、グレイシアさんがこれ持ってきてくれたんだけど……」
再び机の方へ手を伸ばし、小さな籠を取り上げて僕に中身を見せる。赤く熟した林檎が三つほど、そこに鎮座していた。
今回の発熱はちょっとひどくて、昨日からまるで食べ物を受け付けられなかった僕だけど、この果物だったら喉を通りそうな気がした。その意を伝えると、エドワードさんはほっとしたように笑う。
「じゃ、剥いてやるから待ってろ」
枕に頭を預けたまま、慣れない手つきで林檎の皮を剥くエドワードさんを見ていた。
左手に持ったナイフ。赤い果実を支える右手が義手であることを、僕は知っている。右手だけではなく、左の脚にも義足をつけていることも。
なぜこの人が片手片足を失ったのか、詳しい理由は知らない。ただ、何かの折に、彼が『代価』という言葉を口にするのを聞いたことがある。何のための代価だったのか、代わりに何を得たのか、僕は問い質しはしなかった。
僕がこの人について知っているのは、指折り数えられる程度の事柄だけだ。
エドワード・エルリックという名前。
年齢は、僕よりひとつ上。
すごく頭が良くて、与えられる知識をあっという間に理解し応用してしまう能力を持っていること。
短気で無愛想な態度をとるくせに、心根はとても優しいということ。
平均よりちょっと(?)低めの身長を、やたらに気にしているということ。
自分の意に反して離れてしまった故郷に帰りたがっていること。
その故郷にいるという、今は生き別れて会えない弟を、とても愛していること――
けれど、それ以上のことは詮索する気になれない。
この人が抱える秘密を無理に知ろうとすれば、彼は却って手の届かないところに行ってしまいそうな気がして怖かった――まるで逃げ水のように。
何も知らなくていい。このまま傍にいられれば、それだけでいい。
そう思うほど、この人に惹かれている。不思議なくらい。
「弟さんが病気で寝込んだときも、こんな風に看病してあげてたんですか?」
彼の弟というのは、僕と同じ名で、同じ歳で、僕にそっくりな顔をしているのだという。
そんな偶然があるのだろうかと以前は訝しく思ったものだが、僕を見るエドワードさんの瞳が時折どうしようもなく寂しげな翳りを帯びることから、恐らく真実なのだろうと今の僕は悟っている。
ナイフの動きを止めたエドワードさんは、昔を思い出すような遠い目をしてから、「いや」と首を横に振った。
「なんせ歳の近い兄弟だからさ。小さい頃なんか、一方が風邪なんかひくと必ずもう一人にも感染っちまって、いつもふたり揃って母親に看病されてた感じだったな……でかくなってからは、あいつ、病気とか怪我とかしなくなっちまったし」
「身体が丈夫だったんだ……僕とちがって」
僕の言葉に、エドワードさんはなぜか複雑な表情を見せて首をかしげた。
「丈夫っつーか……一般的に言う『丈夫』とはちょっと違うんだけど……ま、とにかく寝込むようなことはなかったな」
――じゃあ、こんな風に優しくしてもらえるのは、僕だけの特権、かな。
そんなことを考えながら、僕のために林檎を剥く彼の横顔を見つめた。
熱を出すのも、止まらない咳も、苦しくてつらいけれど。
面倒をかけてしまって、本当に申し訳ないと思うのだけれど。
こうやって、この人に優しさを向けてもらえることに幸福感を感じる。
本当にささやかで、他人の目から見れば下らない幸福感――だけど、僕にはとても大切なこと。
――ダッテ、イツカアナタハ、トオイトコロニカエッテシマウノダカラ――
「よっしゃ、できたぞ」
差し出された皿には、形は悪いけれど食べやすそうな大きさに切られた林檎が乗っている。
受け取ろうと身体を起こすより先に、エドワードさんはその中の一切れにフォークを刺して持ち上げ、無造作に僕の口元に突き出してきた。
「ほら」
……食べさせてやる、ということらしい。そこまで重病でもなければ、子供でもないのだけれど。
(小さい頃、お母さんに看病してもらったときと同じことを、してくれてるわけだ)
とても無邪気な優しさ。なんだか微笑ましい気分になって、僕はくすりと笑みを漏らす。
そして、子供のように大きく口を開け、みずみずしい果肉に齧りついた。
END
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